様々なレースへの出場と進化
74歳の時に、茨城の波崎で開催されたトライアスロン大会でオリンピックディスタンスと、少し長いミドルディスタンス(スイム2.25km、バイク80km、ラン15km)も併催されて、後者の方に面白半分で挑戦してみた。
制限時間ギリギリで完走できたんですよ。これで行けるなということになって、次に佐渡国際トライアスロン大会でもミドルディスタンスほどのコースが設定されていて出場しました。これが調子が良くて、75歳、76歳で年代別で優勝しちゃった。
その翌年、76歳で五島長崎国際トライアスロン大会のアイアンマンレースに初めて出場した。だんだんエスカレートしていっちゃったんだね(笑)やっちゃえーと思って出たら、見事に失敗しちゃった。甘くないですよね。
バイクまでは良かったんだけど、残り時間5時間くらいで、ランに入ったらすぐ足がつっちゃって、だましだまし走ったんだけど、半分の地点で時間が間に合わないからということで失格になって、初めてのアイアンマンレースは挫折ということになっちゃった。
失格になっちゃったのがショックで座ってうなだれていたら、大会の役員が来て、あなたは来年もやる気があるだろう?もしやるんだったら我流でやっていたら無理だ。千葉の稲毛に「
稲毛インターナショナルトライアスロンクラブ」という、オリンピック選手も出ているクラブがあるから、行ってみたら良いとアドバイスされたんです。
でも3カ月くらい迷った。だってさ、年寄りだからさ、オリンピック選手を養成しているようなところに僕みたいのが行っても全然駄目だと思ってたからさ。でもどうしてもやりたいと思って行ったら、会費を払ってくれればいいですって言ってくれて、入りました。コーチについて練習メニューをこなして、いろいろ教えてもらえるし、仲間もがんばれよとか言って励ましてくれるし。それでのめり込んでいっちゃった。
精神面でもそうだけど、やっている連中の姿勢がね、僕みたいにいい加減にやっているわけじゃなくて、目標を定めてそれに向かって頑張っているんですよ。そういうのを見ると、今まで僕は何をやっていたんだ、僕も一生懸命やろうという気持ちになった。
スピードはみんなより遅いけど、メニュー内容はこなそうと思ったね。大変だけど。何回も途中で辞めちゃったけどね(笑)でも自分自身全く変わって、精神的にも肉体的にも進化を遂げちゃった。クラブに入った時にはできなかったことが、できるようになったからね。
で、次の大会は行けるという自信を持てた。77歳の時、長崎の大会が中止になって、その代替となる大会が知多半島の常滑で、ミドルディスタンスなんだけど、アイアンマンという名前の付いた大会が初めて開催された。同じクラブの仲間と出場しました。それに出て優勝して、ミドルディスタンスの世界選手権に出場する権利がもらえたんです。
世界選手権はアメリカのフロリダで開催されて、2位だった。75歳以上の部で出場。帰国したらクラブでお祝いしてくれてね。だんだんやる気が出てきた。
その年に韓国でやった世界一厳しいコースといわれる大会に出て、世界選手権の権利を取った。15時間を切っていて結構早かったから、僕を追ってくれていた撮影クルーがゴールシーンを取り逃しちゃった(笑)
初のアイアンマン世界選手権大会への出場と挫折
ハワイで行われたアイアンマン世界選手権大会には、78歳で初めて出場しました。でも過呼吸になって失敗しちゃって。とにかくデビュー戦は失敗する。失敗するから次は絶対しない!と思うの。
受付が5時にスタートして、レースのスタート時間の7時まで時間が空いちゃって、スイムの3.8kmは何も飲んだりできないからと思って、飲んだり、食べたりしすぎちゃったんだよね。
スイムのスタート直前、お腹が苦しい感じがした。スタートラインでは立ち泳ぎをしていて、スタートを待つんだけど、そのラインに着くまでとても苦しかった。スタートしてから息苦しくて、ライフセーバーが僕のすぐそばでピタッとくっついて、大丈夫か?と何回も聞いてきた。おかしいなと気づいたんでしょうね。違反にならないからということでライフセーバーのボードにつかまらせてもらって、半分くらいまで何とか行けたけど、もうやめろと言われて断念した。これは惨めな気持ちになった。日本人として恥だと思った。
アイアンマン世界選手権大会へのリベンジ
その翌年、反省が生きて、受付を済ませた後はホテルに戻って、スタート時間までゆっくり休んで、あまり飲まずにスタートを迎えた。79歳の時、2012年大会で15時間38分25秒で優勝しました。そのタイムはいまだに破られていない。前年の優勝者より1時間早かった。コースを間違ったかもしれないと思ったんだけどね。
競技に対するモチベーションが変わるキッカケとなった2015年大会
2015年は制限時間が10分短い16時間50分になった年で、僕はゴールしたんだけど5秒間に合わず、16時間50分5秒だった。花道に入って1回こけて、ゴールの直前でまたこけて、制限時間オーバーで失格になっちゃった。
このゴールがドラマチックだったと世界中のメディアに取り上げられてね。これがきっかけで、フェイスブックにたくさんの人からメッセージが届きました。そして大会後、多くの人から元の時間に戻すべきだという意見が大会本部に寄せられたんです。

それまでは僕がアイアンマンレースに挑戦するというのは、だれにも迷惑をかけない、自分勝手にやっていたものだったのが、この年の大会を機に、自分だけでやっているということではない、応援してくれる人の期待に応えるためにやらなきゃいけないとモチベーションが180度変わっちゃったんですよ。
倒れたときにそばで見ていた人が、僕がよろめきながらまたゴールを目指す姿を見て泣いちゃったと言っていて、来年もまた見に来るから、絶対ゴールしてくれと言われた。そうするとさ、これは絶対ゴールしないと、生きて日本に帰れないと思うくらいの気持ちになった。
多くの人の応援を力に変え、優勝した2016年大会
翌年の2016年大会では、大会の1週間前に制限時間が10分長くなることが決まった。そのレースでは本当に死ぬかと思った、何回も。でも応援してくれる人の言葉が頭にあったから、死んでもいいと思って頑張った。それで優勝できた。死んだら、あいつは死ぬまでやったんだからって許してくれるだろうと思った。
だから、その後の大会は、そういう人たちの言葉があったからゴールできているけど、それがなければできなかった。
応援してくれている人たちは、僕がどこを走っているかネットで見てくれている。時差がある日本でも見てくれている。
何キロ地点を通過したということがわかる、それがいくら待っても通過しないとなると応援してくれている人も焦るでしょう、だから、何としても次の地点を通過するという気持ちでやっている。辛いからやめるなんて言うことは許されないでしょう。だからゴールできている。歩きたいのに歩けない、死にそうな顔していられないから、カッコよくしてないと(笑)
ー2015年の大会は、稲田さんの競技人生を大きく変えているんですね。たくさんの人からの応援とその人たちのためにという稲田さんの想いがレースを走り抜く力になっているんですね。
2018年の時は、世界中から応援メッセージが殺到しました。仲間がツアーを組んで、応援に来てくれて、朝の握り飯まで作ってくれて、本当に面倒を見てくれた。自分の限界を超えた力を出させてくれた。自分だけのことなら辞めちゃう。みんなの期待に応えなきゃいけない、頑張らないと駄目だと思える。
3回優勝させてもらっているけど、2、3回目は自分の力だけでは絶対ゴールできなかった。本当に死にそうなときは何回もあったからね。